■アヤカシ回顧録■

■第1回■
作:じんべい、籐太 / イラスト:TOMA


―1―

 いったいどれくらいの間、そうしてきたのだろう。


 街から離れ、気がつくと寂れた住宅街へ辿り着いていた。

 激しい疲労と空腹。さらに目眩が酷くなる。


「私は……誰だ?」


 朦朧とした意識の中、記憶の断片が順に蘇える。


 広い屋敷。

 畳の広間でアキノと並び、主の前に立つ“自分”。


 桜舞う校門の前。

 照れくさそうに笑う久坂悠の隣で同じ微笑みを浮かべる、もう一人の“自分”。


 一つの身体に、相反する二つの意思が混在していた。

 牧原和泉が放った最期の攻撃、その影響だった。


 あれからずっと、エイムの思考と和泉の思考が、水と油のように混ざり合うことなく、一つの体に渦巻き続けている。

 自分を見失った夜明エイムは帰る場所さえわからなくなり、御明市を離れ放浪していた。


「私は……誰だ……」


 再び呟く。体の疲労以上に心が疲れきっていた。

 そんなエイムの耳元に、幻聴のように老婆の声が響いた。


「わからないのかい?」


 うるさい、向こうへ行け!

 ぼやけた視界に映る影を睨みつけるものの、叫びは声にならなかった。

 足からも力が抜け、塀に手をつく。


 その手から金属の匂いがした。

 赤い木の実のブローチを、ずっと握り締めたままだった。

 これはあの竜の使い手が、牧原和泉に贈ろうとしたプレゼント。


 決してエイムに贈られた物ではない。

 なのに、今まで捨てることができずにいた。


 エイムは自分の中から和泉を追い出したかった。

 これさえなければ、苦しみから解放される。

 これさえなければ、自分の中にいる和泉を追い出せる。


「これは……私の物ではないッ」


 ブローチを握る手を大きく振りあげる。

 そのまま地面に叩きつけようとする。だが、そこで和泉の思考が邪魔をした。


 振りあげた拳がゆっくりと降ろされる。


 同時に去来する安堵と怒り。

 エイムの身体はぐらりと傾き、その場に倒れ伏した。



―2―

「ただの過労ですね……では、お大事に」


 まどろむ意識の中で、そんな声を聞いた気がする。

 どうやら気を失っていたらしい。

 見上げる天井は、見知らぬ場所だった。


 古い木造の家。縁側に面した和室に寝かされていた。

 エイムは体を起こそうとするが、極度の疲労でそれさえもうまくいかない。

 やっと上半身を持ち上げた所で襖が開いた。

 襖を開けたのは、倒れる前に声をかけた老婆。


「幸江、目が覚めたのかい」


 サチエ? 一体誰のことだろうとエイムは部屋を見渡した。

 部屋には夜明エイムと老婆だけだ。

 その老婆はエイムを見ながら、ニコニコ笑っていた。


「お医者様がね、今夜は柔らかい物を食べさせるようにっておっしゃるのよ。お粥でいいでしょ、幸江?」


 何か勘違いをされているらしい。

 エイムは、はっきりと告げた。


「私は幸江ではない」


 断言すると、老婆は何かに気づいたような顔をして、棚の上に置かれていた物を持ってきた。


「これ、幸江のでしょう?」

「だから私は……!?」


 老婆が差し出した物を見て、言葉を飲み込んでしまう。

 赤い実をかたどったブローチ。

 それを見ただけで、またもエイムの中で激しい葛藤が巻き起こった。

 やはり、このブローチがあるから混乱する。


「私のものではない!」


 気がつくと頭を抑えながら、荒々しく声をあげていた。

 それでも老婆は意に介することなく話を続けた。


「これ、大切な物なんでしょう? 倒れたときもずっと握り締めてたのよ」

「違う! 私の物ではないと言っているッ!」


 声を上げる間にも、和泉の意識が大きくなるのを感じて、エイムは乱暴に腕を振るった。

 その勢いに呑まれ、はからずも老婆の手からブローチが弾き飛ばされた。

 金属を弾いた音が縁側から庭の方へ吸い込まれていく。


「あ……」


 偶発的とはいえ、今まで捨てたくても捨てられなかったブローチを、ついに手放すことができた。

 途端に和泉の意識が弱くなり、動悸と葛藤が遠のいていく。

 だが代わりに、胸の奥に穴が開いたような奇妙な喪失感が湧き起こった。


「いいのかい?」


 老婆が寂しげな顔で聞いてきた。

 エイムは意識して無表情を作り、視線を逸らす。


 これでいい。これで苦しみから解放されるはずだ。

 エイムは老婆に背を向けて横になると、再び瞳を閉じた。



― 3―

 エイムとて、名も知らぬ老婆の元で長く世話になるつもりはなかった。

 かといって行く宛てはなく、また体調も優れない。

 そこに老婆から、居てほしいと引き止められ、歩き回れるくらいに癒えるまでは居座るつもりになっていた。


 いや……実際には、もう一つ、エイムにはこの場所を離れられない理由があった。


 この数日、気がつくといつも縁側から庭を見ている。

 その時間が、日に日に長くなっていく。

 考えるのは、自分で捨てたはずのブローチのこと。


 すぐにでもブローチを探し出すべきだという自分と、一刻も早くこの場所を離れるべきだという、もう一人の自分。

 新たに生まれた葛藤が、エイムに出て行くことをためらわせていた。


「ねえ幸江、そこにある孫の手、取ってくれないかい?」

「私は幸江ではない」


 老婆は相変わらず、エイムのことを“幸江”だと思いこんでいる。

 エイムはそれを素っ気ない態度で否定する。


 それでも素直に孫の手を取りに行く辺り、彼女なりに感謝の意を表していたのかもしれない。

 少しよろけながら立ち上がり、仏壇の近くにあった孫の手を取る。


 ふと、飾られている遺影の一つに目が止まった。

 そこに写っているのは、女性。

 その姿はエイムと似ても似つかない。

 だが、遺影の裏に小さく“サチエ”と書かれていた。

 思わず見入ってしまったのは、それに気づいたからだ。


「……幸江?」


 振り返ると、老婆が不思議そうにこちらを見ていた。

 エイムは孫の手を渡すと、そのまま何も言わず布団の中へ戻った。



― 4―

 さらに数日が過ぎた深夜――。

 月明かりの下、エイムが庭の中に立っている。

 すでに身体は充分に癒えていた。

 そろそろ出て行くべきだ。そして“彼”とアキノの元へ戻る。

 自分が夜明エイムならば、そうする。


 それが“自分”の証明。そう考えているはずなのに──。


「何故だ?」


 自問自答。考えるよりも先に体が動いていた。

 夜闇の中、薄い月の輝きだけを頼りに、捨てたはずのブローチを探している。


 縁側のすぐ下に落ちたはずなのだが、なかなかみつからない。

 何日間も放置する間に、どこかへ行ってしまったらしい。


 もう諦めろ。それは必要ない。


 そう思っていても、探すのをやめられなかった。

 自らの矛盾した行動と思考にエイムは苛立つ。

 だけど、どうしようもなかった。

 あれがなければ自分が自分でなくなる。そんな不安が体を動かした。



 だが暫くして、急に闇が濃くなる。

 見上げると月は雲に隠れ、明かりを落とすことをやめていた。

 わずかな光明さえも断たれ、エイムは呆然と立ちつくす。


 ブローチは見つからない。


 そう考えた瞬間、大きな喪失感に襲われ、動悸が激しくなる。

 心が激しく乱れる。息切れがする。

 苦しくて、強く閉じた瞼に浮かぶのは――男の子の顔。

 少し乱暴で子供っぽいけれど、やさしく、頼りにされると人一倍張りきる、牧原和泉がずっと好きだった人。

 彼のことを思うたび、胸が締め付けられ、体が熱くなる。


「悠、くん……」


 気がつくと、その名前を口にしていた。

 それは誰の耳にも届くことなく、夜の闇に溶けてしまうはずだった。


「その人、幸江のいい人?」


 思いがけず答える声があって、エイムらしくもなく驚いてしまった。

 いつの間にか、老婆が縁側に腰掛けてこちらを見ていた。

 エイムは何も言えず、ただうつむく。


「出て行ってもいいのよ」


 突然、老婆がそう言った。


「……後悔してるのよ。あの子、音楽家になりたいって言い出してね。外国に行くんだって言ったのよ」


 エイムには老婆が何を言おうとしてるのか、わからない。

 それでも言葉を遮ろうとは思わなかった。


「私は反対してね。最後は勝手にしなって追い出してしまったの。 幸江は泣きながら出て行って、事故に遭ったの……」


 老婆は遺影が飾られた仏壇のほうを見ていた。

 それが、ふいとエイムのほうを向いた。

 だけどその視線はエイムを捕らえていない。

 まるでここにはいない、とても遠くにいる人を見ているようだった。


「これ、大切な物なんでしょ?」


 老婆が手のひらを広げ、持っていた物を差し出した。

 それは赤い木の実をかたどったブローチ。

 反射的に手を伸ばしかけて、ためらった。


「ちが……う」

「大切な人に貰ったのよね?」 


 大切な人、その言葉で真っ先に浮かんできたのは、“彼”でもアキノでもない。

 こちらに微笑みかける、久坂悠だった。

 それを意識した途端、左目から涙がこぼれた。


「後悔してたんでしょ。もう捨てたりしちゃダメよ」

「違う……私は、後悔して……ない……」


 左目からこぼれる涙を止められない。

 涙を流しているのは、きっと和泉の部分だ。

 久坂悠を思う牧原和泉が涙している。

 夜明エイムが泣いているのではない……それを証拠に右目は乾いたままだった。


「ほら」


 ブローチを手渡され、エイムは思わずそれを胸に抱いた。

 今度は、右目からも涙が溢れた。


 ダメだ……自分の中には、確実に牧原和泉がいる。

 それは動かしようがないんだと、両目から溢れる涙に悟らされた。

 和泉が愛していた久坂悠という存在が、エイムの心を熱し、二人を溶け合わせた。


「大切な人がいるなら、ずっとそばにいてあげて。そうじゃなきゃ、守ってあげられないから……」


 守る、という言葉。和泉の最期の意志も、悠を守ることだった。

 エイムは、素直に頷いた。それと同時に一つの決意が表れる。


 ――御明市に戻るべきだ。


 葛藤や混乱を完全に克服したわけではない。だが、ここにいても仕方がない。

 自分が何者か確かめるためには、戻るしかない。


「お世話になりました」


 決断すれば早い。それはエイムと和泉、二人に共通した性質だったろう。


「幸江、気をつけてね」


 立ち去ろうとする背中に、老婆の声がかかった。エイムは足を止めると、迷いのない口調ではっきりと告げた。


「私は幸江さんではありません。夜明エイムです」

「……そう。そうだったわね」


 老婆は少し寂しそうに笑った。

 昔のエイムなら、このまま立ち去るだけだったかもしれない。だけど、今は和泉である部分も持っている。


「ですが、あなたの言葉通り、気をつけて行くことにします」


 エイムにとっては、精一杯の誠意を示したつもりだった。

 それが相手に充分、伝わったかはわからない。

 ただ、老婆の微笑みから寂しさが薄れるのが見て取れた。


「ありがとう、エイムさん」


 言葉に目礼で返し、今度こそエイムは去った。


 御明市に向かう。

 自身の内と外で起こる激しい戦いを予感しつつも、歩みを止めることはなかった。

― 了―


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